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ハイセイコー2 平谷とかけてハイセイコー さてそのこころは…

ずいぶん競馬にのめり込んでいた時期がある。馬券で儲けたというようなことは、あまり記憶にない。それでも毎週、毎週、競馬場に通い、毎日毎日競走馬の情報に一喜一憂していた。
きっかけは、誘われて買った初めての馬券が当たった事だった。馬券で得た、別に大した額ではない金で私を競馬に誘ってくれた男と安酒を飲みながら、男の妙に暗い競馬への情熱を夜が白むまで聞いた。
翌週の日曜日。私はいっぱしの競馬通のように後ろポケットに競馬新聞を突っ込み二色のボールペンを握りしめ淀行きの京阪電車に乗っていた。

今から思えば不思議な競馬体験だった。絶対に強い馬だと評価される馬はどうしても買う気になれなかった。素晴らしい良血馬と評価される馬も買う気になれなかった。純粋にサラブレッドと認められない「サラ系」と表示される馬たちに心を惹かれたり、いつもどん尻から直線だけ一生懸命追い込んでくる馬を追いかけたり、スタートのゲートが開くと狂ったように飛び出して、何十馬身も後続馬を引き離して逃げながら決まって直線でバタッと止まってしまう馬を追いかけたり、絶対にゴール前を二度走らないという癖馬の長距離挑戦に大枚をはたいたりと……。

あの頃を思い出すと、妙に鼻孔の奥に硝煙のような匂い漂ってくる。
高知の片田舎から京都に出てきていた私はその頃、田舎に帰る気は毛頭なかったけれどもあてもなくどこかに行きたかった。
全国各地の競馬場を巡るような生活に憧れて、務めていた会社のわずかばかりの退職金と、どうやって手に入れたのか思い出せないけど失業保険の「就職支度金」を合わせて、人生始まって以来のまとまった金を持ち、その全てを競馬場に行き一つのレースに賭けた。予定ではレースが終わるとその足で京都駅に行き、入場券だけを買いホームに入ってきた汽車に飛び乗れば良い手はずだった。だけど、夢はかなわなかった。クビ差の一着三着。結局行きついたのは、片づけておいたいつもの暗い下宿だった。その後、トライアルと出会うのにはまだ紆余曲折があるのだが、前の会社を辞めたときに誘われていた後にトライアルジャーナルを出版することになる会社に入社した。

『競馬は人生の比喩である』と書いたのは寺山修司だった。
この言葉をトライアルに重ねてみることがある。あの時こうだったらという思いを山のように詰め込んで、年老いた今も輝く若さの時代の自分を忘れられない人。ひっそりとターンの練習しかしない人、曲がることが大嫌いでとにかく思い切ってアクセルを開けて斜面を駆け上り続ける人。絶対に5点をとらないと心に決める人、どんなに転んでもクリーンしか狙わない人。乗るよりもオートバイを触っているのが好きな人、ウンチクを傾けるのが好きな人etc……

私はといえば紆余曲折を経て、今はあてもなくどこかに行きたかった頃の自分をかすかに哀惜を込め思い出しながらトライアルに出かけている。そして幾分かはあの頃の夢も実現している。新緑の香る東北の町や夏の終わりの東北の町。日本海に浮かぶ島、焼酎と馬刺が美味い九州の町。日本海に面した都市の、美人だが薄幸そうな、両手があかぎれた飲み屋の女将……。

こんな事を書きたかったのは少しだけ理由があった。
その理由は後に書くとしてサンデーファミリートライアルスペシャルin平谷は昨年突然、華々しいデビューを遂げた。大会前から降り続いた雨がいっそうこの大会の印象を鮮烈なものにした。
スタート前に突然エンジンがかからなくなり、リタイアした人。トライアルは楽しいとそそのかされて、初めてトライアル大会に出て水没、リタイアした人。いつもちゃっかり自分だけ楽をすることに長けた人。バックマーカーに追いつかれて泣きながらカードを渡した人。九十九折れ(つづらおれ)の山道で地獄を見た人。自分の走りに満足した人、優勝した人、最下位で完走した人等々。南アルプスに連なる美しい山々の風景を参加者に見せたくて果たせなかった主催者の人。顔で笑って心で泣いた人。追いついてしまった人から泣かれて心を痛めたバックマーカー役。コースとセクション設定に自分のトライアル観を実現しようとした人。

そんな記憶に惹かれて今年も再び参加した人、噂を聞いて今年初参加した人、様々な人が今年も平谷にやって来た。
昨年この大会に出場した私は、なぜかスタート前にリヤブレーキが全く効かなくなり、青息吐息でゴールした。偶然にも難しいセクションをクリーンしたり、とってもやさしいセクションで何度も足を着いたり、途中、渋滞に巻き込まれたりしてゴールしたときは7分のタイムオーバーであった事が心残りだった。

大会前。もし、雨が降ったら今年も昨年と同じようにあのコースを走りきれるだろうか?もし、ブレーキが効いていたらあのセクションは攻略できたのだろうか?
昨年の記憶は思った以上に強烈だった。全く晴れの大会という予想をしていない自分がおかしかった。大会が近づいてきたある日、参加受理書に記入されたゼッケンはなんと最後尾スタート。泣き笑いのような悲鳴を思わず上げてしまった。
前夜の車中泊による仲間達との交歓会もツートラの楽しみの一つ。後は雨が降らないことだけを祈った。
当日は快晴!美しい山間の村平谷から、新緑に覆われた遠くの山々の尾根が見渡せた。

寺山修司は引用の名人だった、と思っている。70年代報知新聞に連載されていた彼の競馬エッセイには必ずといって良いほど演歌の歌詞や、詩の一節、小説や戯曲、短歌などが引用されエッセイの彫りを深くしていた。それから、自分の詩を載せることもあった。ハイセイコーという馬がダービーで負けたとき、彼が長い詩を書いていたのが印象的だった。

平谷のスタート前。次々とスタートしていく人を見ながら外に出したテーブルで朝食をとり、コーヒーを飲んだ。今年はマシンになんの問題も無いはずであった。それは大会前日の午後に確かめてあった。昨年、リヤブレーキがダメになったときは前日にその予兆があったのだった。だけど、それは降り続く雨のせいだろうぐらいにしか思っていなかった。
昨年はセローでこの大会に出場し、それこそ人生の大事件に出会ったかのような体験をした四国の小亀さんが私の前のスタートであった。私は小亀さんがスタートして1分後、全出場者中最後のスタートをした。

私はトライアルは達者だとは言わないが、ことツートラに関しては自称百戦錬磨である。自慢するわけではないが仕事がらみとはいえ、私ほど各地のツートラを何度も走った者はいないだろうと、これだけは自負している。
この快晴の中の大会で、なんのトラブルも無い(スタートした時点では)私にとって最後尾スタートなどヘッチャラだった。ただ、スタート台に上がったときスタッフの人から「宮田さん、バックマーカーの平田さんに追いつかれないようにね。平田さん、宮田さんを追いかけるのを楽しみにしているらしいよ」なんて声を掛けられたとき、まさかぁ、1時間後スタートのバックマーカーに追いつかれるなんてあり得ないと思いつつ、「二度あることは三度ある」という言葉がふと頭をよぎった事が不思議といえば不思議だった。だけど、すぐさま言葉をうち消して意気揚々とスタートした。

第1セクションに行く前に、のんびりと快晴の平谷を楽しんで走っている小亀さんに追いついた。今年小亀さんのマシンはきれいにレストアされたTLR200だ。以降、小亀さんと一緒に進む。
牧場の中の気持ちよいセクション群を抜けて、林の中の第4セクションに辿り着いたときはすでに30人以上の前にいた。コツは素早い下見である。牧場のセクションではトライアルエクスチェンジの仲間、橋本さんが待っていてくれて、三人で走ることになった。

第4セクションを終えてコースはいかにもツートラ風コースに突入する。開けた山の尾根を上り下りしていくのだ。見晴らしの良いトライアルコースを走っているとツートラに出場した幸せをかみしめることが出来る。
ところで、当たり前だが登れば下らなければならない。なだらかな登りの尾根道を進んでいるとき、これまた今から思い出すと不思議なのだが「この後の下りで、もしブレーキが効かなくなったらちょっと怖いなあ」と思ったことだ。

ひょっとしたら、不幸は偶然に出逢うものではなく呼びこむものなのかもしれない。
果たして、それほどきつくはないが尾根の頂上から長い下りにさしかかった。下りはじめてすぐにブレーキをかけた。
その時、リヤブレーキペダルは力無くアンダーガードに当たった。慌てて何度も踏み込んだが全くブレーキが効かない。さすがにフロントブレーキだけでは止まりようがないほどの下りだった。いや、あらかじめリヤブレーキが効かないと分かっていたら昨年のように対処することが出来ただろう。しかし、この前にあった第4セクションの林の中の斜面のセクションまでは紛れもなく効いていたブレーキだったから、パニックに陥ってしまった。
マシンは素晴らしい勢いで斜面を下りはじめる。目の前に立木が迫ってきた。激突する瞬間、かろうじてマシンから飛び出して事なきを得た。

まさか……。とても信じられなかった。リヤブレーキは全く用をなさないようになっていたのだった。とりあえず、その山を下り、舗装路にでたところでエア抜きをしてみたが、役に立たなかった。昨年の失敗に懲りて今年はエア抜き用のホースやらを持って走っていたのだがブレーキオイルは持っていなかったのが悔やまれる。小亀さん、橋本さんらの手を煩わしながら、とりあえず目の前のセクションをこなしてから本格的に見ようということになった。

第5セクションは上りだけだったからリヤブレーキは必要なかった。でも、ここでブレーキを直しているときにガソリンコックをオフにしていたことをすっかり忘れていた。つまり、このトラブルにそうとう動揺していた私だった。
ここまで快調にクリーンを重ねていた私だったが、アウトが見えたところでいきなりエンジンがンモウーと言って回らなくなってしまった。ガソリンコックをオフにしていたことを思いだしたがすでに遅し。いきなり5点をとってしまった。
後で結果を見るとすでにこの5点で私の上位入賞の夢は絶たれていた(実は夢見ていた……)。

気を取り直して、再びブレーキを直すことになった。ツートラ大好きの須之内さんや、皆さんから助けてもらいながら直すもブレーキは一向に蘇ってくれない。せっかく大勢のグループに追いついていたのに、周りには私と橋本さん、小亀さん、それに須之内さんしかいなくなっていた。そこに現れたのがなんとバックマーカーさん!これには驚いた。嘘だろう!?
思いも寄らない展開だったけど私はここで失格を覚悟した。だけど鬼のバックマーカーのはずの平田さんはやさしかった。平田さんは複雑なタイムテーブルが書かれた進行表を見ながら、まだ、時間的には余裕があるのでいったんパドックに戻ってから直して復帰する事を進めてくれた。公道を走る分には逆走とみなさないから安心するようにと言ってくれた。
私は一縷の望みを持ってパドックに戻った。コースに復帰するための道順だけは忘れないように頭が痛くなるほど集中した。なぜなら、私は超がつくほどの方向音痴であったから目印を覚えるしか復帰できる道は無かったからだ。

本当に穏やかな天気だった。降り注ぐ太陽はやさしく、少し火照った体は山間を抜けてくる柔らかい風が冷やしてくれる。パドックに戻ってリヤブレーキと格闘すること40分。マスターシリンダーのピストンを外し、中をきれいにし、キャリパーのピストンを外してグリスアップ。ブレーキフルードを入れ、エア抜きを繰り返す。正直、もう諦めていた。何度やってもブレーキは反応してくれなかったからだ。

そこにスタッフの一人鈴木さんがやって来た。私の作業を見たり手伝ってくれたりしながら、古い機種のキャリパーならあるけど、もし付けば付けてみる?とか言ってくれているその時だった。いい加減エア抜き作業が嫌になっていた私は少々投げやりにブレーキペダルを押していたのだがグッと来る感触を感じたのだった。
鈴木さんが「あっ、来たじゃん。おっ、来た来た。」そう、ブレーキが効き始めたのだ。
「ガンと来ないけど、これなら何とか走れそうだね。平田君との鬼ごっこ楽しんでね」と言われ私は急いでコースに戻った。

復帰するコースの入り口には平田さんとスタッフの一人藤村さんが待っていた。
聞くとこの先のセクションは私のためにオブザーバーを残しているという。平田さんは複雑な進行表を見ながら、ここで予定はオーバーしているけど、セクションの渋滞はないから、14セクションぐらいで予定の時間に収まるだろうという説明をしてくれた。どうやら、失格は免れそうな気配である。急いでコースに入った。

追われるというのはこんなにしんどいとは思わなかった。昔SSDTでバックマーカーから追いかけられたときは、もう投げていたからむしろ「はい、失格!」って言ってくれることを心待ちにしていた。だから、ちっとも気にならなかった。けれども、私一人のために残っていてくれるオブザーバーさんや、後ろから追いかけてくる心やさしい鬼のバックマーカー平田さんのことを思うと、ドンドン進むしかなかった。平田さんは私の後ろをせっつくような無粋なことはしなかった。むしろ適当に距離を開けてくれて追いかけてくる。セクションに到着して下見をする頃に平田さんはやって来て私がセクションを走るとその後自分も走り、セクションの片づけをしてから私を追いかける。
だけど、沢の中のコースや険しいコースになると平田さんのバイクの音がだんだん近づいてくる。ちょっと止まって水を飲みたくなるけれども我慢して先を急いだ。セクションのいたる所で足が出る。セクションでリヤブレーキタイミングをとって左に回り込もうとしてそのまま右の方に突っ込んだりと、きちんとセクションをこなせるほどブレーキは効いてくれない。だけど、多少効くものだから効きが悪いことはすぐに忘れる。なぜだか、昨年の雨の平谷で、リヤブレーキ無しの時よりも点数が悪くなってきていた。

昨年私はOITTでバックマーカーを務めた。その時逃げていた人のしんどさが初めて分かった。平田さんから解放されたのは昨年皆を絶望の淵に落とした峠越えの手前の給油ポイントだった。平田さんがニコニコしながら「宮田さん、ここで基準タイム内にはいったから、もう大丈夫ですよ。」と言ってくれて体中の力が抜けた。そこで、しばしの休息。
雨のない地獄の山登りは、快適そのもののコースだった。ようやく山の頂上にある昼食ポイントに到着。オー!いるいる!参加者の人たち。この昼食ポイントは絶景だった。お弁当を広げる駐車場からわずか離れた高台に展望台があったなんて昨年は知らなかった。なぜなら霧と小雨でほとんど視界がなかったからだ。
こんなにきれいなところだったのかと、思わず唸ってしまう。雪をかぶった南アルプスがくっきりと遠望でき、パノラマ模様の景色に息をのんだ。そうか、主催者はここを見せたかったんだ…。その為にここまで皆に試練を与えたかったんだ…。

だけど、私の平谷はこれで終わらなかった。なぜか自称ツートラ百戦錬磨のはずなのにコースミスを2回。山の頂上で再会した小亀さんと橋本さんに迷惑をかけてしまった。
チェーンテンショナーのバネが伸びていたらしくセクションの中で岩にはじかれたときにチェーンが外れて5点。岩を越えたらズルズルと止まれなくてテープの外にでてしまって5点。あー、もうどうしようもないや。

昨年よりうんと疲れてゴールしたときは午後3時を過ぎていた。ヘロヘロになってパドックに戻り、皆と再会。すでに大半は着替えていてビールを飲んでいる人やお風呂に行って帰ってきた人もいた。とっくにゴールしていた泥君の点数を聞いて絶句する。
3点……。最初の5点で終わってるじゃないか。1位の人は2点。周りの人はみな6点、7点、8点、9点、10点…。
最近急に上手になってしまった伴津留代さんが私に点数を聞いてくる。
「え~!、あたし勝っちゃった。」喜色満面の表情。なんたることであるか…。
もう一人の女性、京都の奥田さんの点数を聞いてまた愕然。負けてしまった…。さらに、さらに昨年デナシオン大会で初めて逢ったトリアルドンナ出場者、木澤由美さんにも負けていた…。

ひたすら落ち込む私にさらに、衝撃的な事実が待っていた。
泥君が妙に神妙な顔でいう。
「宮田さん、もっとショックなことがあります。サイドオーニングが、ふっ飛びました…。」
突風が吹いたのだそうだ。もうなにも語るべき言葉は見つからなかった。

大会は終わった。
温泉がある道の駅駐車場に平谷の出場者有志が集まり、再会を期して別れの『焼き』を入れる。(焼きとは通称、焼き肉とかバーベキューのことを「通」は焼きと称する)。

翌朝、そのまま全日本会場となる新潟に向けて出発する。平谷のことはほとんど語らないし、2位に入賞した泥君の話も聞いてあげない。話したそうにするとすぐに別の話題に向ける。バイクを積んだ横には、風に舞ったサイドオーニングの残骸が積まれている。
だけど新潟までの道のりは美しかった。中央アルプス、北アルプス、妙高山、黒姫山。新潟に着く頃には心はすっかり和んでいた。

新潟の全日本選手権会場入り口にある少しうら寂しいドライブインに入る。コーヒーを飲みながら新聞に目を通していたときのことだ。
「ハイセイコー、死す」という文字が飛び込んできた。
※昨日、死亡推定時刻午後1時半。朝は元気そうだったが午後に牧場の人が倒れているのを発見した…

私はハイセイコーがダービーで初めて負けてからハイセイコーの馬券を買いはじめ、負けても負けても買い続けていた頃の事を思いだした。
そしてハイセイコーが引退をしてからぷっつり馬券を買うのをやめた。しばらくして、ハイセイコーの子供が競馬場に現れたとき、その子供の馬券を買って競馬では経験したことがない大金を手にした。その大金はオートバイに化け、やがて私をトライアルに導いた。辛くて長い労働争議が終わった頃のことだった。
トライアルジャーナルの終刊近い頃、北海道に行きハイセイコーの体に初めて触れることが出来た。奴は旧知の間柄のように私の所に寄ってきた、ように思った……。
ちょうどその頃、本社は苦境の坩堝にのみこまれようとしていた頃だった。

「泥君、泥君。昨日サイドオーニングが吹き飛んだのって、何時ぐらい?」
「さあ、1時過ぎにはもうゴールしていたから、1時半過ぎじゃないでしょうかねえ」

もし、寺山修司がいうように競馬が人生の比喩ならば、ハイセイコーは私の人生の節目にターフを全力で駆け抜けていった。手綱を引っ張られるのを振り払うように、狭い競馬場から飛び出すように、人間の欲望の渦に抗うようにそれはまるで必敗への全力疾走だった。

ハイセイコーは死んだ。限りない草原に向けて走り去った。その一陣の風が平谷に届いたのだとその時思った。
私は自分がトライアルを人生の比喩のように語るべき年齢に突入していることを知った。

<ストレートオン 2000年5月号掲載記事>
新しく創刊された雑誌にツーリングトライアルレポートとしてハイセイコーの死と重ねて書いた記事。この頃はわりあい楽しんでレポートを書いていた。

ハイセイコー1

不思議なもので、同じところにいて、同じ時間に同じ事をしていても、感じることは違うのである。北海道8日間の旅の心象風景は形を変えた北海道をそれぞれ写している。私たちの北海道はこの夏北海道を訪れたであろう何十万の人の中の、たった三つに過ぎない。

宮田の北海道
「現代は英雄を必要としない時代である。」
ハイセイコーという無敗の馬がダービーで敗れたとき、歌人の寺山修司はそう書いた。

「誰のために走るのか、なにを求めて走るのか」
ハイセイコーが引退してターフから去った後、騎手だった増沢はこう歌った。

「ハイセイコーが引退してしまって、なにもすることがなくなりましたので結婚することにしました。ハイセイコーの子どもが競馬場に帰ってきたときに自分の子どもを連れて応援に行きたいと思います。」
ある若い男は自分の結婚式の日に泥酔してこう挨拶し、新妻の家族から激怒された。

ハイセイコーが怪物と呼ばれたときからもう20年以上が過ぎた。大井の公営競馬から中央の競馬に殴り込んできて、並みいる中央のエリートサラブレッドを撃破して連戦連勝を重ねたこの馬は、本当に多くの人たちの夢を背負って走り続けたのである。そのハイセイコーの敗北は同時に多くの人の夢の敗北だった。
見果てぬ夢の時代。70年代は終わった。日本は高度経済成長の時代に突入し、世界の経済大国への道をひた走るのである。
トライアルでは加藤、黒山、近藤が激しく争っていたときのことである。

競馬の頂点はダービーであると言われている。そして、このダービーを頂点に三冠レースがある。皐月賞、ダービー、菊花賞。この三冠レースに出場できるのは馬が四歳の時だけである。しかも、まだ牧場にいる子馬の時からエントリーをしていなければ出場できない。また地方の馬は(公営競馬。地方自治体が主催する競馬。対して、中央競馬は国が管理する競馬、以前は農林省で今はJRA日本中央競馬会が主催統轄している。)中央競馬に所属する厩舎に転入しなければ出走できない。つまり、地方の厩舎で育てられた競走馬はそこから出て、仮にクラシックレースを制しても、強い馬を育てた地方の厩舎には勝利の美酒は何もないわけである。今年から、この制度が改革されて地方厩舎に所属していてもクラシックレースに出場できるようになったと聞いているがはっきりしたことは知らない。日本にはこの三冠レースを制した馬はセントライト、シンザン、ミホシンザン、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、の六頭だけである。

トライアルに熱中するようになってから競馬場にはぷっつりと行かなくなった。さすらいの馬券師を夢見た僕の「青春」は終わった。ただ、スポーツ新聞で時たま見る競馬欄でこうしたスター馬たちの動向を知るだけになっていた。かつてサラブレッドの血統で埋め尽くされていた「記憶の書棚」はトライアルライダーの名前や記録に変わってしまった。

ある時、オグリキャップという芦毛の馬が地方から中央の競馬に転身し、ハイセイコーと同じように中央の馬たちを相手に大活躍をして大人気になっていることを知った。このオグリキャップはハイセイコーと違いクラシックレースと呼称されるレースには出場できなかった。しかし、クラシックに勝った馬たちを相手に勝った。若者たちが競馬場に押しかけ「オグリ、オグリ」と連呼するのだそうだ。また騎手の武豊もまた同様に観客の連呼の中手を振りながら応えるのである。
僕が競馬場に通い詰めていたときは観衆は息を詰めて声にならない声を上げ、その何万もの観衆の声にならない声がどよめきとなってスタンドを揺り動かすようにこだました。一枚の馬券に託した一人の夢と欲望が手の中からこぼれおちていき、やがて大きく集まり紙吹雪が渦のようにスタンドを舞っていた。

がらんとした競馬場には
十万の人が残していった大きな寂寥が
暮れるにおそい五月の空の下にひろがっている
誰もいなくなったスタンドに立って
自分一人にかえるのは
なんと惨めなことだろう
この淋しさの波紋
このはてしない空虚は
千万の人々を入れるに足りるものだ


-鮎川信夫「競馬場にて」-

時代は変わったとその時はっきりと知った。そして、新たな時代の夢を背負ってオグリキャップも走ったのだろう。僕にはもうその夢がなんだったのか視えない。
しかし、ハイセイコーのことはずっと気になっていた。引退して種牡馬になったハイセイコーに会ってみたいと心密かに思っていたのだがその機会はなかった。ところが、新聞を読んでいるとハイセイコーは種馬としての使命を今年で終えそうだという記事が載っていて心が騒いだ。馬の年齢は人間の年の四倍というからハイセイコーは人間でいうと80歳を超えていることになる。死ぬ前にひと目会いたいという気持ちは抑えられなかった。人の思い入れなぞ理解しがたいものがあるから、今回の北海道取材に同行した加藤と泥には説明しなかった。僕が突然、白老から夕張に行く前に新冠に行くと言いはじめたものだからずいぶん面食らったことだろう。

サラブレッド銀座と名付けられた牧場群のなかを走り、まずオグリキャップのいる牧場を見てみた。さすがに大勢の人がカメラを持って悠然と草をはむオグリキャップを写している。現役時代を一度も知らない僕にはこの馬がどんな馬だったのかはよくわからないけれども、自分が多くの人に愛されていたことは知っているように振る舞っているのではないかと思えた。
ハイセイコーのいる明和牧場は、このサラブレッド銀座のずっと奥にあった。軽い興奮状態のなかで眼を走らせた。すると車を牧場の中に入れた先に一頭の黒い馬が無心に牧草をはんでいるのが目に入った。牧柵に近づくともう消えそうになった字でそれは「ハイセイコー号」であることを記していた。

直に見るのはこれで二回目である。京都の淀競馬場で菊花賞の日にパドックで間近に見たことがある。その姿は強烈だった。黒鹿毛の巨大な馬体は他を圧してビロードのように輝いていた。
僕は給料の大半をこの馬の単勝に賭け、そして鼻差で負けた。
今、21年ぶりに見たハイセイコーはそんな他を圧するような風情ではなく、悠々として優しげだった。黒光りはしていないが大きな体は昔のままである。所々に泥浴びのせいだろう土が体についている。しかし、筋肉が隆々としたかつての姿はそこにはなくよく見ると首さしのあたりには明らかに老齢から来る弛みも見える。柵の外から僕はどうしてよいかわからなかった。馬にどうやって声をかけてよいかわからないのだ。
するとこちらの気持ちを察したわけではないだろうが、ハイセイコーはゆっくりと草をはみながら近づいてきた。僕は初めてハイセイコーに手を触れた。思わず目頭が熱くなっているのに気がついた。これはいかん、と思いつつもこの過剰な感情を抑えるのは難しかった。

僕はあの時代、自分の何をハイセイコーに重ねようとしていたのだろう。自問すると未だいつもの軽い混沌に目眩を覚える。

しかし、突然こみ上げてきた過剰は、愛惜すべき僕自身の時代があったことを教えてくれた。そして、ハイセイコーが自分の体に触れるのを許してくれたとき、僕は僕の愛惜すべき時代ともう和解すべき時期がきたと思った。

トライアルとは関係のない話を長々と書いたのかもしれない。
「競馬は人生の比喩である」と寺山修司は言ったが、トライアルに熱中していたときターンやステアの練習を繰り返しながらこの言葉を時々思い出していた。
だが、今は「トライアルも人生の比喩たり得る」と言うために、どうしても自分自身で書き留めておきたかった。

北海道の空は高かった。ひょっとするともう夏は駆け足で過ぎていっていたのかもしれない。全日本を久しぶりに見たとき今までとはなにか違う涼感をともなって見られたことが嬉しかったことも、付け加えておきたい。

<トライアルジャーナル no.130 1995年10月号掲載記事>
雑誌に初めて自己史的なことを書いたときの記事。編集と営業の三人がそれぞれ北海道に取材した時のことを記事にした。トライアルという趣味の世界を仕事にしてしまった事に対する屈折した引け目をずっと感じていた。そのことをようやく払拭した時期に書いた。だがこの後、掲載した雑誌の運命は短かった。


別ブログを作ってみました。

今回のメンテナンスでリニューアルされたソネットブログだが、複数のブログを持てるようになったので早速作ってみた。ほとんど興味本位である。メインの補完的なメモのような感じでと思っているが、自分でも出口がわからない七面倒くさい内容のものを分けるかもしれない。必要でないかどうかしばらく使ってみようと思う。
さて、リニューアルされたソネットブログだが、スクロールの速度などが多少重くなった。以前はログインするとブログの先頭ページが表示されていたが、今は管理ページが開く。管理ページはあまり見なかったので確かではないが、いろんな項目が増えている。
アクセス解析など、仕事で使っている人には必要だろうが私にはあまり必要がない。が、ちょっと見てみた。Yahoo!とGoogleからの検索がほとんどである。ページビューがずいぶん前の日記からまんべんなく散らばっている。管理ページのアクセスランキングは圏外の表示。どうやらソネットブログの中でも立派に超マイナーの立場を保っているようだ。総閲覧数は122030。読者数(これは固定読者という意味か)は19人。素直にお礼をいっておきます。

とりあえず、マーキングのようなものとして。



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